28日(月)

リーガ観光

リーガでの午前中は自由時間にあたっていたので、各々が好きなように過ごした。後から他の団員に聞いてまわったところ、観光を楽しむ者あり、さらに酒をあおる者あり、睡眠をむさぼる者あり、という様子だったようだ。このあいだに、仲間が一人帰国の途についた。「この日まで無理して残ることにしてよかった」と言っていたのが印象に残っている。集合時間になって集まったときには、団員たちの、疲れながらもすっきりした顔を見ることができた。演奏の全過程を終え、残るは観光ばかりだ。

多くの団員が前夜のお酒をひきずりダウン気味だった午前中、前日ほとんど飲まずに早く寝てしまった私とルームメイトのやっしーは、比較的早い時間に朝食をすませ、リガの街を観光してきました。
タリンに比べるとリガは規模も大きく都会!という感じで、また素朴で北欧の雰囲気の濃いタリンと異なり、アールヌーヴォー様式の高い建物が立ち並ぶなど、むしろドイツやフランスに近い雰囲気の街でした。
一通り散歩を済ませた後、二人で出店の琥珀のアクセサリーを物色し、私はピアスを、やっしーはブレスレットを購入。手持ちのリガの通貨が少なかったことと、値切っている時間がなかったことが大変悔やまれました。
ホテルへ戻る道すがら他の団員にも遭遇。なんと朝から「迎え酒」していた面々もいたことにちょっと驚きました(笑)

パルヌ〜コーヒーブレーク

行きと同じように、リーガからバスでパルヌに向かった。パルヌの旧いお屋敷を喫茶店にした「Ammende Villa」にて、コーヒーブレイク。用意された甘いお菓子を、おいしいコーヒーや紅茶とともにいただいた。とても古く、美しい屋敷であるばかりでなく、ビリヤード台などもあって、みんなを楽しませた。ただ、そのビリヤード台は日本人にはちょっと腰の位置が高すぎたようで、何となく寂しい思いをした。疲れも何のその、団員の元気に遊ぶ姿が、そこにあった。

大きくて立派な建物だった。正直疲れきっていたのに、こんなに心が躍るのは何故だろう。未知の場所に踏み込むことには少なからず勇気を要すると思っていたが、ここエストニアではそんな気持ちに全くならない。この暖かい空気を生み出すものは何なのか、そして日本では冷たさすら感じるのは何故か、大いに考えさせられる。
さてさて中に入ってみると、すぐ目にとまるのが大きな暖炉。本の挿絵やテレビでしか見られなかった壮大なものがそこにあり、中に飛び込みたい衝動に駆られた。が、火が燃え盛っているのでやめにする。我が家にも暖炉欲しい。
カッコ悪い姿を晒すのは嫌なのでビリヤードには近付かず、ヤンネさんや運転手さんと話をする。エストニアの冬についての話を聞いた。サウナに入って体を温めた後、雪に飛び込んだりするらしい。子供心がうずく。クリスマスについての話もあった。冬もなかなか魅力的である。次は冬に訪れようと決意した15の夜だった。
暖炉の前のソファーに座り二人だけの記念撮影。残念ながらカメラの調子が悪く、写真は残らなかった。想い出だけが僕の中で生きている。 ただお菓子とコーヒーを口に入れただけで、満腹になった。一緒に含んだパルヌの暖かい空気のせいだろう。透き通った街。僕は笑顔で眠りについた。

あこがれの歌の広場

パルヌからタリンへ戻る途中で、しとしとと雨が降り始めた。エストニアには多いという雨のなか、Evergreenは、ヤンネさんに案内してもらって「歌の広場」を訪れた。そこでは、5年に一度、エストニア最大級のイベントである「歌の祭典」が行われる。広い広い野外音楽堂に、数十万もの人が集まり、合唱する。自然に、ヤンネさんのお話を思い出した。ヤンネさんの思いを想像しながら、少し緊張した気持ちで広場を歩いた。Evergreenは、「歌の祭典」に思いを馳せつつ、「Mu isamaa on mimu arm」を歌った。歌を聴いて喜ぶヤンネさんの様子に、エストニアの人々の誇り高さを少しでも感じ取ることができたように思う。広場で写真を撮った後、バスまで戻る競走をした。団員たちの元気は、もはや底なしのようだ。

小雨降る中、ついにあこがれの歌の広場に到着した。想像していたよりもはるかに広大なその場所は、静かに我々を迎えてくれた。ここに何十万もの人々が集い、祖国独立への想いを歌に託した、1988年9月11日。実際の地に立ってその光景を想像するだけで、心が震えた。エストニアの人々にとって、いかに「歌」が生活に活力を与えてきたのか。この場所が、一つの答えを示している。
階段状になった石造りのステージまで、思い思いのやり方で進んだ我々だったが、この場所でやりたいことは共通していた。エストニア第二の国歌「Mu isamaa on minu arm」の演奏である。あの時の人々の気持ちに同調できればと歌った歌は、ガイドのヤンネさん、それにたまたま居合わせた地元の人々に温かく受け止めてもらえた。
すっかり気分の高揚した我々は、バスまで走って戻ることにした。しかし、歌の広場は広大でさらに傾斜があり、旅行5日目で疲労の蓄積した身体にとってこの運動は酷であった。なんとかバスまでたどり着いたものの、そこからホテルまで、バスの中の会話は消え、呼吸を整える音ばかりが響いていたのだった…。

エストニア最後の夜

ホテルに戻ったあとは、タリンでの最後の夕食だ。ホテルの夕食はとてもおいしかった。疲れと充足感のまじったゆるやかな雰囲気のなか、それぞれのテーブルでなごやかな会話が繰り広げられた。

二次会は、ヤンネさんの行きつけのお店で飲むことになり、ヤンネさんに連れて行ってもらった。ヤンネさんと過ごせる夜も、この日限りだ。Evergreenは、用意してきた日本のお土産に、みんなで書いたメッセージ入りの扇子を添えてプレゼントした。そこには、ヤンネさんへの感謝の思いが込められていた。このとき初めて、Evergreenは、それまで穏やかな顔をしていたヤンネさんが泣く姿を見た。泣き笑いのヤンネさんの顔に、Evergreenは、自分たちの思いが通じたことを知った。同時に、ヤンネさんの気持ちが痛いほど伝わってきた。

そんな二次会からの帰り道は、またもや歩きながらの大合唱だ。でも今度は、ただ嬉しさだけを感じているのではなかった。もうすぐそこに来ているヤンネさんとの別れ、エストニアとの別れに、Evergreenの心は今までにない寂しさを含んでいたのだ。ヤンネさんに贈る「てぃんさぐぬ花」を歌いながら、みんなの足は自然にとまった。そしてヤンネさんを囲み、輪になって歌いつづけた。ヤンネさんはまた涙を流し、Evergreenはその涙に応えるように高らかに歌いあげた。この素晴らしい経験は、日本にいたままでは決して在り得なかったに違いない。Evergreenにとって、「てぃんさぐぬ花」の優しいイメージは、そのままヤンネさんのイメージなのだ。歌うたびに思い出す、優しい記憶なのだ。

エストニア最後の夜・その2

…この後のうってかわったホテルでの盛り上がり様は、ここではお伝えしない。ただ、その光景の異様であったことだけは確かだ。これこそ知るひとぞ知る、不思議な場だった…。