25日(木)

アンティグア観光/アマティトラン市コンサート

開会式から一夜明けた11月24日、午前中は昨日前夜の教会での演奏の余韻もそこそこに7時台に起き出し、8時にはバスで宿舎を出発。午前中は古都アンティグアの観光に時間を費やした。まずは街全体を見渡せる十字架の丘へ。視界いっぱいに広がるアグア火山の雄大な姿と、山麓に意外にも整然と整えられた街並みを眼にして団員皆、大きな歓声をあげた。ここアンティグアは1543年にスペインにより、グァテマラはもとより中米・南米全体に渡る支配の拠点として建設され、その後長く繁栄を極めたものの1773年の大地震で壊滅、首都は現在のグァテマラ・シティへと移されることとなった。以降も何度か地震の被害を受けるものの、1979年に世界遺産に登録され街全体の保存が図られている。白・黄・オレンジといった色が目立つ建物や石畳が南欧の雰囲気を感じさせた。

バスは山道を下りアンティグア市内へ。とにかく街全体が遺跡のようなもので非常に興味をそそられるものの、また明日も訪れるということでこの日は通過。民芸品を中心とした土産物センターのようなところで降り立ち1時間ほどの自由時間となる。素朴ながら色とりどりの織物やアクセサリーに眼を輝かす者、日本に残してきた家族や同僚への土産に頭を悩ます者、はたまた買い物もそこそこにグァテマラ名物のフライドチキン・チェーン「Pollo Campero」(ポヨ・カンペロ)にて舌鼓を打つ者(そのクォリティたるや、かのケンタッキー・フライドチキンが退散したと言われるほど!)、それぞれ有意義に過ごしたようであった。

お昼前にアンティグアを出発。この日のコンサート会場に近いアマティトラン湖へと移動した。保養地ともなっている湖のほとりを、同行してくれているコロ・ビクトリアのメンバーに案内してもらう。この日はバスでの移動が長かったが、彼らとおしゃべり(無論、通訳の白石さんのおかげ)したり歌を交換したりで退屈することがなかった。日本の歌では『さくら』を一緒に歌うことができたが、これはChorus STを率いた前回のENLACE CORAL以外にも何度もこの地を訪れておられるという清水先生の指導によるものらしい。

公園の中の小ホールにて昼食。アマティトランのコーラス隊(年配の方々で構成されていた)から温かいもてなしを受ける。ホールの中央にはステージがあって、少年5人のマリンバ演奏隊が次々にいろんな曲を披露、各国の合唱団から喝采を受けていた。そのうちそれに合わせてメキシコが踊りだし、オーストラリアもグァテマラの人々に連れ出され、Evergreenも手を引っ張られて…と、踊りの輪が広がったのだった。

夕方にアマティトラン市ホールへ。この日のプログラムには迷ったものの、身にまとった沖縄の装いに合わせた『てぃんさぐぬ花』、一部をスペイン語に訳した『島唄』、グァテマラの人々の心に直接響く『Luna de Xelajú』、そして団員お気に入りの『Chili con carne』などを演奏することに決めていた。しかしこの時のEvergreenは、選曲に込めた意志、演奏を楽しみたいという思い、音楽を待つホールの雰囲気、何かを伝えようと意気込み、滞在5日目の気持ちの張り、これらが必ずしも一つの方へ向かわず、まるでかすかに不協和音を奏でているかのようだった。リハーサルから舞台袖へと続く緊張。自分達の前にステージを繰り広げるメキシコ、キューバの合唱団へ、観客と共に惜しみない拍手を浴びせながらも「とにかく、いい演奏がしたい」と願うばかりだった。

いざ本番。Josquin des Près『El grillo』から。しなやかなルネサンスを奏でられた。だがやはり、どこかぎこちなくもある。筆者の不安をよそに曲は進む。しかしMäntyjärvi『El Hambo』で沸く客席。『てぃんさぐぬ花』、『島唄』ではブラボーの歓声やスタンディングも。そして『Luna de Xelajú』ではやはり圧倒的なスタンディング・オベーション! この日はグァテマラのお客さんに助けも借り、一音ごとに自分達を取り戻していったと思えてならない。最後の『Chili con carne』は……まだちょっと未熟だったかな。少し申し訳ない気持ちも抱えながら、しかし大きな拍手を浴びながらステージを後にした。続いた大トリのオーストラリアは堂々たる演奏。これは非の打ち所もなく素晴らしかった。

ステージ終了後はグァテマラ・シティへ急行、国立音楽院で行われているメキシコ合唱団のステージを鑑賞した。演奏者と観客一人一人にキャンドルが配られ、そのキャンドルに灯された明かりのみでの演奏に心を奪われる。しかしこの日はちょっと疲れた。食事、ミーティング、シャワーもそこそこに眠りについた仁階堂先生とEvergreenであった。

<文責:黒木陽晴>